【監督の決意】終止符。

目次

川崎アタッカーズの終わりが近づく。

プロセス

川崎アタッカーズのあゆみ、監督になり17年

正直、ずっと悩んでいたことでした。

いつ、川崎アタッカーズを終わらせるか・・・

結論が出てから、全て整ってから公表しブログを書こうと思っていたのですが、今の揺れて悩んでいる状況を、自分の整理のためにも書いていこうと考え直し、投稿します。

まず、川崎アタッカーズ・チームの大まかな歴史ですが、

  • 1987年10月  宮城県川崎町に川崎アタッカーズ誕生。小野郁夫前監督が地域になかった女子のスポーツ少年団をつくった。
  • 2007年11月  創部20周年を迎えてまもなく小野郁夫氏がお亡くなりになり、大友美恵が監督を引き継ぎ現在に至るものの、
  • 2020年 5月  実質的に活動を中断。団員0人。
  • 2021年10月  活動を再開。2人の子どもと練習スタート。
  • 2022年4月〜  団員がようやく揃い、連盟へチーム登録できる状態に。大会出場が叶う。
  • 2023年6月  全日本宮城県決勝大会にて優勝し、全国大会の切符を掴む。
  • 同年8月   全日本バレーボール小学生大会にて、全国ベスト8
  • 以後、東北選手権大会優勝という東北制覇、各種大会にて優秀な成績をおさめつつ、現在に至る。
  • 2025年10月から、団員8名で活動中

歩みの詳細は、下記のページをご覧ください。

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なぜ、川崎アタッカーズに終止符を打つのか?

従来から、登録・活動拠点(川崎町)と登録選手の居住地(名取市、岩沼市、柴田町他)の実態の齟齬がありました。

川崎町の子どもが団員として存在しない時間が3年ほどになります。川崎町という地域に根ざしたスポーツ少年団というには無理がある状況が続いていたことを、私自身も悩み、不本意と感じていたわけです。
町行政側、担当部署との摩擦もありました。
全国大会出場を果たし、全国第5位という快挙を成し遂げても、東北選手権大会にて優勝し東北制覇を成し遂げても、川崎町の地域にて受け入れてもらえていない寂しさがありました。町長に表敬訪問をしようと試みても相手にしてもらえず、広報にも掲載してもらえないのですから。

もちろん、活動を応援してくれる人もたくさんいました。
「すごいね」と讃えてくれる人もいました。

しかし、疎外感は拭いきれません。

この状態でいくら活動をしても、川崎町の団員は増えない、地域の人たちに応援してもらえない。
川崎アタッカーズとしては、将来的に継続できないだろう、
このまま続けるわけにはいかない。

この気持ち、考えは、ずっと私の中にありました。

卒団したOBの皆さんにも、なんの報告をしても喜んでもらえないのではないか・・・
卒団した教え子たちにも現状を知らせたらがっかりするだろう・・・

虚しい気持ちはずっとありました。

川崎町の子どもがいない状況では川崎町でチームを保つことは難しい、八方塞がりだと思いつつ、
目の前にいる子どもたちと親を信じ、「川崎」でいいんです、と言ってくれるみんなと夢を追いかけてきたのです。

おこがましいことを言い恐縮ですが、「川崎」の名前、「宮城の川崎」、「川崎アタッカーズ」の名前に固執していたこともあります。県内外各地のチームに馴染んでいる名前「川崎」。これを捨てていいのか悩んできました。
現在の団員・親も「川崎」でバレーをしたい、と、「川崎」が良くて入った、「川崎」を無くさないでほしい、と言われたこともありましたから。うれしい反面、心の揺れ幅が大きくなっていました。
38年のチームの歴史を思えば、辞める、という決断をするまでの気持ちにはなれなかった、
そういう時間を過ごして、

正直、「川崎」の名前を失いたくはなかった自分がいました。

決意のきっかけ

それなのに、なんで?終止符を打つのか・・・

一言で表すなら、「団員の喪失」と「今後の発展性へのあきらめ」の掛け算の答えです。

子どもが親が離れていくたびに、辞める子どもと親を送り出すたびに、私は指導者失格だと何度も思いながら、自分を責めながら、こんなことを続けていいのかと自問自答してばかり。

今年、何人の子どもが辞めていったか・・・

それぞれの辞めた理由は違いますが、共通項として私が原因であることは否めません。

その責任をとって監督を辞める、辞めたい、と何度も思いました。

でも、残っている子どもたちをどうするのか、誰も助けてくれません。

やるしかないのだから、自分が変わらなければならない、と何度も自分に言い聞かせて過ごしてきました。

しかし、私は、

・・・これから小学生バレーボールの指導を続けていいものなのか、
・・・自分は、何をしたいのか、
・・・やりたいのか、やりたくないのか、
・・・子どもたちのことを本当に思っているのだろうか、
・・・何のためにこんなことをやっているのか、
こんな苦しい思いをしていても川崎町では今後発展することはないだろう。

どうせやるなら、子どもがいる地域で多くの子どもに出会いながらチームをつくりあげたい。

そして、
現状多くの団員が住む、名取市にチームをつくりあげよう、と発案を形にするところまで来ることができました。

そうするしかない、って、今後私が小学生とバレーボールをするためには、「川崎」では無理だと判断しました。今の川崎アタッカーズを終わりにしてもいい。夢を持てる場所に変えよう、という代替えとしての発想です。

「名取市」にチーム拠点を移す。

これが、現状の団員・子どもたちと人口、年齢構成、地域性を考慮して最善の道だろうと判断しました。

  • バレーボールをやってみたい
  • バレーボールスポーツ少年団に入って頑張りたい、頑張らせたい親御さん
  • バレーボールが上手くなりたい、強くなりたい子どもたち
  • 近くのチームを探している

そんな子どもたちと多く出会う場所は「名取市」だと。

今の親たちが、我が子のスポーツ活動を応援し、生活しやすい環境を子どものスポーツ環境と合わせかち取る・提供するために、住んでいる地域に存在し活動拠点があるスポーツ少年団であることが、今後のチームの存続と発展に必要であろう、と。

たくさんの子どもたちに出会い、仲間になれるよう、チームをつくれる環境が名取市になら、
今ならつくれるという思いがどんどん確信に変わっていったのです。

・・・もうこれしか方法はない。

自分の思いを埋める、また夢を追うことができる方法は、

地域を変えてチームをつくること。

自分を責めながらも、自分の心に正直になれば、
私の情熱の炎は消せない、
ここまでやってきた自分には諦めることができない。

自分、こんなもんじゃない、こんな終わり方はできない、納得できない。

最優先は、
今目の前にいる子どもたちと親を一番大事にして環境を変えること。
今私と一緒にいてくれる団員・親のためにチームを存続し発展させること。

そして、
新たに、新たな子供に出会う確率を上げる環境に身を移すこと。

私は、
自分自身に嘘をつかないこと。

川崎アタッカーズの終止符は、私が打つこと。私しか打てない。
そう、「川崎」を終わらせる、それは誰にもさせない!私にしかできないことと自分に言って聞かせて、行動しながら踏ん切りがついてきました。

これが、「川崎アタッカーズ」にさよならすると決めた、私の思考の、心のプロセスです。

まずは、私の考えを「組織の考え」にすること。
そのためには、

  1. クラブの主要なスタッフに理解をしてもらい、合意を得ること
  2. 現在の団員保護者・子どもたちに説明して意見をもらい、同意を得ること
  3. 新体制の仕組み、人員配置を再構築すること
  4. 川崎町と名取市の担当課に趣旨説明し相談し、行政の理解と協力を得ること
  5. 具体的な準備「チーム名の決定」「ロゴマーク」など
  6. 地域への周知、SNSを利用しての周知、広告

ここまでは考えている。やり始めているのが今。
やりながら、きっといろんな課題にぶち当たる。

今は、まだ1番と2番の協議途上です。

名取市らしさをもつバレーボールチームとして

名取市の地域の方々に応援してもらう気概を持つクラブへ

“八咫烏”をシンボルに、名取市スポーツ少年団としてのアイデンティティ

名取市に愛されるシンボルを探して、名取市の歴史や文化を調べたところ、

「八咫烏」を知りました!

名取市の「八咫烏(やたがらす)」は、単なる鳥のモチーフではなく、名取市の歴史と文化の根幹に関わる非常に重要なシンボルです。

歴史的・文化的側面:熊野信仰と「名取老女」伝説

名取市の八咫烏の存在は、市のシンボルである「名取熊野三社(熊野本宮社、熊野那智社、熊野新宮社)」の歴史と切っても切り離せません。

*導きの神としての八咫烏
  • 八咫烏の由来: 八咫烏は、日本神話において初代天皇である神武天皇を大和まで道案内したとされる「導きの神」であり、熊野三山(紀伊半島)の神の使い(神使)です。
  • 名取への勧請(かんじょう)伝説: 伝説によると、平安時代末期に名取の地に住んでいた「名取老女(なとりおうな)」という女性が、年老いて紀州(和歌山県)の熊野へ参詣できなくなったため、故郷に熊野の神々を迎え入れようとしました。
  • 八咫烏の役割: この神々を名取の地(高舘山)へ導いたのが、八咫烏だったと伝えられています。八咫烏は、老女を見守り、先導となって飛び、最終的に名取の地に熊野の神々を安置したとされます。
  • 烏の宮: 伝説では、その神鳥である八咫烏が死んだ場所には「烏塚」が築かれ、のちに「烏の宮」として祀られたと伝わります。これは八咫烏が名取の地を「神の領域」にするための重要な役割を果たした証です。
文化的側面:災厄除けの御神符
名取市観光物産協会HPより
  • 熊野牛王神符(くまのごおうしんぷ): 名取熊野三社では、紀州と同じく、カラスの姿を図案化した「カラス文字」で書かれた「熊野牛王神符」が授与されます。これは病気平癒や災難除けの御神符として、古くから地域の信仰を集めてきました。
    このように、名取市の八咫烏は、地域の成立と信仰の歴史を伝える「生きた証人」であり、熊野信仰という広域の文化を名取に定着させた最重要ファクターとして位置づけられます。

 * 歴史的側面: 紀州の熊野信仰を名取の地に根付かせた**「導きの神」**としての重要な役割。
* 文化的側面: 災厄除けの**「熊野牛王神符」**に込められ、地域信仰の中心にあるシンボル。
 * 名取市らしさへの位置づけ: 「東の熊野」という独自のアイデンティティを確立し、地域に開運・前進のメッセージを与える、市の精神的なシンボル。

以上の学びを得て、
八咫烏は、名取市の豊かな歴史と強い信仰心を象徴する存在として、地域に深く位置づけられていることがわかりました。

名取市の「東の熊野」としての歴史や、八咫烏(やたがらす)=導きの神・勝利を導く象徴という神話モチーフは、

バレーボールチームの理念(チームワーク・導き・未来への飛翔)とも非常に相性が良いと考えました。

八咫烏をチーム名称に活かす

その理由は前述の通りですが、

まとめると、

導きの神としての象徴: 日本神話において神武天皇を導いたとされる八咫烏は、「導きの神」として知られている。名取市においても、名取老女を熊野の神々のもとへ導いたと伝えられており、チームを「より良い方向へ導く」象徴となる。
開運・必勝のシンボル: 八咫烏の「導き」の故事から、「開運招福」「必勝祈願」「旅行安全」といったポジティブなイメージが連想される。特に、日本サッカー協会のシンボルマークにも採用されていることから、勝利や前進といったメッセージをチームに与えることができる。
歴史と伝承の継承: 名取市の地域文化に深く根ざした八咫烏の伝説は、チームが歴史や伝統を重んじ、それを未来へ継承していく姿勢を示すことにも繋がる。
独自のアイデンティティ: 名取市が「東の熊野」という独自のアイデンティティを持つ上で、八咫烏の導き伝説は不可欠な物語。チーム名に八咫烏を用いることで、他にはないユニークで力強いアイデンティティを確立できる。

こう考えて決めました。チーム名に活かしたいと。


今言えるのはここまでです。

今からどうなるか、
今後、投稿を続けていきます。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

これからも応援よろしくお願いします。

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