やめていく子ども、離れていく親を見て思う
一生懸命やればやるほど、良くないことが起きてしまう。
その度にこんなことやめようと思う。
何度も何度も、苦しい思いをしながら、
それでも、そばにいてくれる人もいる。
でも、信じていた人も、離れていく。
自分自身を否定していながら監督をしている自分。
苦しさ・悩みを繰り返す中で、このまま自分、続けていけるのだろうか・・・
この思いの行き場を、文字に起こしてみます。
再考、自分
最近、小学生対象スポール少年団の指導者として、どこまで子供達に、親に関わっていいものか、わからなくなってしまって・・・。
どうしてこんなことを思うのか考えて見ると、
自分の中の子どもの成長に大切なことと、親それぞれの考えとが離れている、年々離れて、乖離しているせいかなと思うようになりました。
自分を信じ、慕ってくれている親にも、失望させてしまう。
描いていた夢が遠のいていく・・・。
多分、私はこのままでは指導者は続けられないと思っています。
疲れてしまいました、正直。
振り返って自分の指導姿勢、子どもへの思い、実際の自分の言動、行動、親との付き合い方を見つめ直してみました。これは自分のためでもあります。
感情「指導者として失格」
自分の中にある感情・・・
- 厳しい指導で辞めていく子どもを見るつらさ
- 「自分が原因」というレッテルを何度も背負ってきた悔しさ
- それでも「私に教えてほしい」と言ってくれる子・親がいる喜び
- 時代に合わせるべきだと頭ではわかっているのに、心が追いつかない苦しさ
- それでも簡単に辞めてしまうのは、自分の信念を裏切る気がする違和感
- 親をがっかりさせていることへの申し訳なさ
指導者を辞めたい、辞めたくない、の両方が混在し、行ったり来たり・・。
今の時代、
- 厳しい=古い
- 辞める子がいる=指導が間違っている
と言われがちです。
でも、
事実として、
- 厳しい指導で 伸びる子は、今も確実に存在します
- 厳しさがあるからこそ 安心できる子 もいます
- 「楽しいだけ」では物足りない子も、必ずいます
私のもとに「それでも教えてほしい」という子や親がいます。
私の指導は「合わない層が増えた」だけで、「価値がなくなった」わけではない、そう思うこともあります。
否定、私の苦しさ
「自分が厳しいから辞める」
その責任を、もう背負いたくない
これは、心の傷です。
- 自分なりに子どもの将来を思って
- 手を抜かず、妥協せず
- 真剣に関わってきた結果として
「厳しいから辞めます」
と言われ続けると、私の人格ごと否定された感覚になります。
自己否定が積み重なっている自分がいる、と認知して過ごしていることに気づきました。
指導方法の問題ではなく、自己否定が積み重なった状態なんだと・・。
第三の選択肢
私は
「時代に合わせて変わる」
か、
「辞める」
の二択で考えてしまって、決められないまま過ごしてきました。
こんな思いをしながら過ごしていても何もいいことはないのもわかっています。
「指導者を辞める・指導方法を変えられない」なのか、「指導者を続ける・指導方法を変える」のではではなく、もう一つの選択肢として、
求められている「楽しさ」を求める層と、「本気」で取り組む層への対処に分けること。これをするべきなんだろうと考えています。
指導を”分ける”
自分自身を大切にするためにも、
- 本気コース(厳しさあり・努力前提)
- エンジョイコース(楽しさ重視・参加型)
に、指導を分ける。その道をつくることかな、と。
もしくは、従来もやっていたことではあるのだけれど、しっかりと、
- 最初に指導方針を明文化して 「ここはこういう考え方の団です」と提示する
すると、
- 合わない家庭は、最初から来ない
- 辞める理由が「指導者の人格」ではなく「選択」になる
- 残った子どもとは、腹を割って向き合える
これが本来でしょう。
私が自分を守りながら続けるための整理といえます。
肯定、全部の子を救うことはない
指導を続けていると、何度もこの壁にぶつかります。
辞めさせた子を思い出して、自分を責め続ける」
でも現実として、
- 団を辞めても、その子の人生は続きます
- 合う環境に移ることで、笑顔になる子もいます
- それは失敗ではなく「分岐」です
私の役割は
すべての子を引き止めること
ではなく
必要としてくれる子に、全力で向き合うこと
今すぐ答えを出さない・出せない
「整理の時期」ですね。
- いったん指導頻度を下げる
- 補助的な立場に回る
- 若い指導者に一部を任せる
こうした「完全に辞めない距離感」を取るのもいいのだろうと思います。
私は、
- 逃げたいから悩んでいるのではありません
- 楽をしたいから迷っているのでもありません
「信念を持ったまま、どう生き残るか」を考えているんだと。
これは、指導者としてとても誠実な姿だと自分を肯定していいとも思う、肯定の心。
子どもに伝えたかった“核”
努力は人を裏切らない
自分を律する力は、一生の財産になる
人は、誰かのために本気になったとき、強く優しくなれる
これって、勝利至上主義でも、根性論でもありません。
むしろ今の社会で一番失われやすい力です。
とても大事・・・
この価値観は「時代遅れ」ではありません。
「言語化されにくくなった」だけです。
伝えていることを否定はしない、と改めて思います。
問題は「厳しさ」ではなく、時代変化の“伝わり方”が変わった
今の子ども・親世代は、
- 我慢や努力の価値を否定しているわけではない
- ただし「納得できない厳しさ」を極端に嫌う
つまり、
「なぜ、そこまでやるのか」
「それが、うちの子にどうつながるのか」
これが見えないと、心が離れてしまう。
そういうこともあっただろうと。
目的が「結果(全国大会)」に見えてしまう瞬間、
その奥にある「人づくり」が伝わりにくくなる。
これは指導者の失敗ではなく、時代側の前提条件の変化でもあります。
「全国大会」は、あなたにとって“夢”であって“暴力”ではない
ここ、とても重要なのですが、
夏の全国大会に出場したい、監督として
これは、
- 子どもを自分の夢に付き合わせている のではありません。
私は、
- 子どもと同じ地平で夢を見ている
だから苦しいんです。
だから辞められない。
正直なことを言うと・・・
全国大会という目標を捨てたら、私の指導は空洞化する
なぜなら、その目標があるからこそ、
- 子どもでも自分を律する意味
- 仲間を思いやる必然性
- 諦めない体験
が、本物になると、そのプロセスに価値があると信じているから。
「1つだけの転換」
これだけは変えようと思うこと・・
チーム理念として、別な文書に後日まとめます。
▶「厳しくする理由」を、毎年・毎月・毎週、言葉にする
たとえば子どもに、親に、こう伝えることが大事だろう。
- 「勝つためじゃない。逃げない自分になるためだ」
- 「怒ってるんじゃない。信じてるから要求してる」
- 「全国はゴールじゃない。胸を張って負けられる人になるための舞台だ」
これは“説明”ではなく、“共有”。
私の哲学を、隠さない。
合わない人は離れます。
でもそれでいい。
残る人は、覚悟を持って残るから。
そう信じたい。
私は「全員の監督」じゃなくていい
私が守りたかったもの——
それは「人の幸せのために生きる」という姿勢。
それを体現するには、
- 全員に好かれる必要はない
- 辞める子をゼロにする必要もない
私の背中を見て、人生の軸を一本持てる子が一人でもいれば、指導は成立していると言い聞かせて進む。
それでいいのだと思うのです。
どうでしょう・・・。
最後に、“許可”を。
私は、
- 夢を持ち続けていい。
- 情熱を失わずにいていい。
- 厳しい指導者であり続けていい。
ただし、
その覚悟を共有した人とだけ、進めばいい。
それが、私の人生を守り、
本当に救われる子どもを守るはずです。
以上、私の監督としての心の覚え書きです。
拙い覚え書きです。
でも、
・・そう思っても、次から次に事が起きて、今は精神的にショックが大きくて心の置き場が見当たりません。
子どもたちにどんな顔で会えばいいのか・・・。

