ある人のブログを読んで自分を振り返ったり、ふと頭に浮かんだことを書いてみる。
ここ2、3年、卒団した教え子たちの言葉。
実際に会って話した、他者から聞こえてきた言葉、少し思い出した。
- 小学生に戻りたい
- ほんと楽しかった
- あのときはよかった
- 監督の練習はやはりいい
- ちゃんとしたいから監督に会いにいきたい
- 自分を取り戻りたい
- 監督に会うと自分が蘇る
これって、今の自分、自分の状況をあまりよく思ってなくて、もっと良くしたい、という気持ちの現れなんだろうな、と解釈できるのでは?
対面でこういうことを言われて時には泣かれることもある。
何があった??どうして泣く??辛いんだろうな・・、何が辛い??
ふてくされない!
私は、お前は大丈夫だ、と言うしかない。ふてくされないでやりきれ!と。何も間違ってないぞ、と。
励ますことしかできない。
自分が間違っていない、納得できないでいる、こんなはずしゃなかった、
そんな気持ちが溢れている。
教え子たち、特に今高校生の子どもたちが小学生の頃は、私は鬼だった。
親が見てられないような練習をしていた。子どもたちは毎日泣きながら練習してた子どももいた。ネット越しに聞こえる呻き声、それでもボールを投げる私。表情がなくなってもその手は止めなかった。
まして、甘えてわがままな、勝手にあきらめてやらなくなるようなことがあればかなり怒りつけて追いこんだ。
そんな時間を過ごした子どもたちが、私に今会いたい、と言っている。
どうしてなのかって、
子どもたちはわかる。わかっている、伝わる。
子どもはあなどれない
子どもたちは自分のために本気になって感情をぶつけていた私のこと。自分のために本気になって怒る私の思いをわかってくれて卒団している。
そして、外にいる理不尽な指導者とも出会っている。
比べるのは当たり前。
指導者が自分のために怒ってくる納得できない理不尽な指導者のこと。
私がそういう指導者ではない、と言うことをわかってくれている。
怒ってはいけないの解釈の違い
怒ってはだめだ、という言葉だけそのまま鵜呑みにすると、怒る行為全てが否定されてしまう。
そうではないだろうに、決して怒ることが悪いのではないだろうに。
正直、怒る、ではなく、叱る、だと言われるが、私自身は区別もできないし、叱るつもりでもめちゃ感情的に怒るし区別できない。
まだまだ未熟。
ただ人として間違っている行為、思いやりの欠けた行為、自分は勝手な行為には目をつぶれない。
その子に良くなってほしいから。
外からみれば、他のチームの親は私の練習風景をみて「かわいそう」と泣く人もいる。
これには私もびっくりしたが・・笑
何より、卒団した子どもたちが答えを出してくれている。
私はそう解釈している。
学びを止めない
そして私が学び努力していることも子どもたちはわかっている。
子どもたちはあなどれない。
指導者をよくみているということを指導者は自覚しないといけない。